阿弥陀浄土更茶羅図
阿弥陀如来はいまだ成道を果たさないときに誓いを立て、衆生済度のため西方十万・億土の地に理想的な浄土をひらくことを発願し、それが成就して極楽浄土と称した。浄土経典に説かれている極楽浄土の有様を描き出した図様は浄土図・浄土変・浄土鼻茶羅とよばれる。
日本では浄土三鼻茶羅といって智光が感得した智光曇茶羅、清海が感得した清海鼻茶羅、中将姫が蓮糸で織りあげたという伝説をもつ当麻曇茶羅の三つが知られている。なかでも当麻曇茶羅は広く知られ、多くの製作をみた。
当麻鼻茶羅は「観無量寿経口により、善導の注釈書「観経四帖疏」に準拠して描かれる。法蔵寺の浄土曇茶羅は当麻鼻茶羅である。内陣の中心に阿弥陀三尊とこれを取り巻く多数の諸聖衆からなる華座段、上辺に虚空段と宝楼段、下辺に宝池段と宝地段を配し、宝池段の左右に宝樹段、宝地段の下辺に舞楽会などを配置する。
壮麗な浄土の世界が表わされ、各種の浄土図のなかでこの形式のものが最も美しいといわれる。
内陣の左右および下縁は外陣とよばれる。向かって左辺には息子の乱行に苦しむ母が阿弥陀の浄土に生まれることを釈尊に願う物語が描かれ、右辺には上品上生から下品下生まで修善の深浅にかかわらず、みな阿弥陀仏の来迎と引接にあずかることができることを図示する。
江戸時代中ごろの元禄・宝永・正徳・享保期は、三春城下町が最も充実した時期にあたる。曇茶羅「大勧進建立棟梁」の法蔵寺二十世昌岳和尚が城下民に勧進を呼びかけたのは正徳年間二七一一9一七一六)のことと思われる。
岩岳和尚弟子向禅が記した裏書によれば、裏書結縁交名百七十七人、追善供養の裏書戒名五百十八人、それに百万遍講中二
阿弥陀三尊来迎名号板木と摺仏百七十六人、合わせて九百七十一人にのぼる大勧進となった。画工並びに表具は丸守彦十郎常定が仕ったとある。
別に軸仕立について供養戒名三十九人の記載がある。金物二十六人のなかに、家督を継がぬうちに死去した三春城主秋田輝季嫡男就季夫妻の戒名が見える。一文字風袋に七人、裏絹として六人の戒名が記されている。
軸は渡部源兵衛が作り、ダ糸木村孫左衛門と見える。銘文と裏書に名を連ねた人は、しめて千十三人にのぼる。
享保二(一セ一七)年九月二十三日、三春城主秋田頼季参列のもと開眼供養が行われた。